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2019/7/18

時代を読み取る「広島的嗅覚」

第三章 広島人はなぜ、グローバルな発想が得意なのか
広告・宣伝の力 初めての試みもためらわず、お金も糸目をつけない

岩中祥史「広島の力」(青志社)より

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 この時代の日本では、広告を出すような会社は商品に自信がないからだという受け止め方が一般的だった。だから、岩谷の大々的な「紙巻タバコ」販売促進キャンペーンもあちこちから批判を浴びた。だが、岩谷はそれには一切耳を傾けず、次々と斬新なアイデアによる広告・宣伝を展開し、1901年の長者番付では全国ナンバーワンになっている。

 そうした中、森下はさまざま苦労を重ねながら、1900年、梅毒薬「毒滅どくめつ」を売り出す(それにしても、すさまじい商品名ではある)。

 商標に用いたのは、その2年前に没したドイツの首相ビスマルクである。小国プロイセン(普魯西)を軍事力で統一し、大国ドイツに押し上げた「鉄血宰相」ビスマルクは、日本でも多くの政治家から尊敬されていたこともあり、知名度が高かったようだ。

 森下は「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴くばい(黴毒を駆除するの意)唯一の神薬」というコピーを作り、日本で初めて全国の日刊紙に全面広告を出す。また、全国の大都市の街角に据えられていた掲示板にポスターを貼るなど、当時としては考えもつかないような宣伝を展開し大きな成果を収めた。

 おもしろいのは、ビスマルクをCMキャラに採用していることだ。ビスマルクはそれまでヨーロッパにおいてすべての面で遅れていたプロイセンの首相として、1867年の普墺ふおう(対オーストリア)戦争、71年の普仏戦争と、大国との戦争に勝利してドイツを統一、イギリス・フランス等の先進国と肩を並べるほどの強国に引っ張り上げていった。その才覚・手腕が、ほぼ同じような環境に置かれていた日本の政治家にアピールしていたのは事実である。

 だが、それはしょせん政治の世界の話であって、梅毒を癒す薬とどこでどう結びつくのか、なかなか理解しづらい。考えられるとしたら、どんな強い敵にも屈しないその政治手腕を、同じく当時の日本人にとって厄介な強敵だった梅毒になぞらえた……といったことである。

 「毒滅」の発売からしばらくのち、日本はロシアとの戦争(1904〜05年)に勝利し、世界中を驚かせる。それにより、″強国何するものぞ≠ニいった意識が日本中に広まっていったのは間違いない。

 その日本とドイツ、そしてその象徴的な存在であるビスマルクとが重なり合い、売れ行きをさらに加速させたように思える。森下にとってはまさに、ビスマルクさまさまということになったわけだが、そこには言葉にし難い国際感覚、社会感覚、また一般人の意識のありように対する嗅覚のようなものが働いたのだろう。

 その後、以前から着目していた家庭保健薬の研究を進め、表面を赤いベンガラ(のちに銀箔に変更)でコーティングした大衆薬「仁丹」を売り出したのが1905年である。このときの広告宣伝も衝撃的であった。

 商品のネーミングは、儒教で最高の徳とされる「仁義礼智信」の「仁」と、台湾で丸薬に使われていた「丹」の文字を組み合わせたものだったし、トレードマークも、「毒滅」で使ったビスマルクをデフォルメし、人々に親しまれていた大礼服を着せた姿にしたのだ。

 当時の売り上げの3分の1を宣伝費に投資したといわれ、新聞や街の琺瑯ほうろう看板、薬店には突き出し看板やのぼり、自動販売機などを設置するなど、いま流に言うならマルチメディアを活用した大々的なキャンペーンだった。

 トレードマークの大礼服は当時の薬局の目印になったほど。また電柱広告にも目を着け、町名表示と広告を合体させた看板を作ったり、鉄道の沿線に野立のだて看板を設置したりなどということもしている。

 東京・浅草や大阪駅前に建てた大イルミネーション・仁丹塔は、いずれも新しい名所となった。こうした宣伝が功を奏し、全国津々浦々にその名が浸透した「仁丹」は、発売わずか2年ですべての売薬の中で第1位の売上高を達成、莫大な利益をあげたのである。

 さらに、1907年には中国をはじめ、東南アジア、インド、南北アメリカ、アフリカにも進出している。これもまた、広島県人お得意のパターンである。狭い日本にはけっして満足しない習性があるのだ。

 また、1914年から始めた「金言広告」は一世を風靡し、各方面から称賛された。「天は自ら助くる者を助く」「時を空費するは無情の奢侈しゃしなり」など古今東西の格言を、新聞広告、電柱、看板、紙容器などに入れたのである。

 また、世の一般常識を短くまとめた「昭和の常識」という広告も手がけたりしている。広告は商売の柱、商品を買ってもらうための一手段であるのはもちろんだが、だからといってそれだけに偏していればいいわけではない。人々の暮らしに、また広く社会に役立つものでなくてはならないという「広告益世」の考えを強く持っていたからだ。

 その後も「仁丹」は売れ続け、1936年からは社名もそれに変更している。太平洋戦争が終わってからも、森下の精神を受け継いだ仁丹は、50年1月、戦後初めて新聞に全面広告を打ち、翌51年に始まったばかりのラジオ(名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送(現毎日放送)など)にも注目、多くの番組のスポンサーとなった。

 もちろん、1953年8月からスタートした民放テレビの番組にも広告を出稿している。当時人気のコーラスグループ「ダークダックス」が歌った「ジンジンジンタンジンタカタッタッター」というCMソングを覚えている人も多いのでは。

 こうしてみると、森下博なる人物が、脇目も振らずに時代の先頭を走り続けてきたことがよくわかる。しかも、ただ突っ走るだけではなく、その時代ごとに社会全体、また人々の暮らしぶりへの目配りを忘れていないことに驚く。

 もちろん、森下個人のキャラクターやセンスによる部分が多くを占めているが、そうした人物を生み出す広島の風土も忘れてはならない。


岩中祥史(いわなか よしふみ)
 1950年11月26日生まれ。愛知県立明和高校から東京大学文学部に進み、卒業後は出版社に勤務。1984年より出版プロデユーサーとして活動するとともに執筆活動も。地域の風土と人々の気質との関係をテーマに、『名古屋学』『博多学』『札幌学』『鹿児島学』『新 不思議の国の信州人』『新 出身県でわかる人の性格』『名古屋の品格』『城下町の人間学』など著書多数。2011年の上梓した『広島学』はご当地広島の人たちをも驚かせる内容で、ベストセラーになった。


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