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2018/10/11

名だたる出稼ぎ国だった理由 岩中祥史「広島の力」(青志社)より

第一章 広島人はなぜ、屈託のない性分なのか
ハンディをバネにする力/鯉の力 意外に粘っこい広島人

>>9月27日号から続く

 そのあと紀伊きい(現和歌山県)からこの地に封じられてきたのが浅野氏である。浅野氏は幕末まで広島を治めたが、輝元がかつて願っていたことをその間にあらかた実現していく。それにより、西国さいごく街道と瀬戸内海海運の枢要すうようの地という役割を果たしながら、広島の街とその周辺地域は大いに栄えたのである。

 浅野氏が力を入れたことの一つに新田開発=干拓事業があった。海っぷちに建っていた広島城の南側一帯を埋め立て、新たに住居地と田地を築いていったのだ。いまの地図を見るとわかるが、広島城の南側は堀を築き、それは現在の八丁堀はっちょうぼりあたりまで続いていた。つまり、それより南側は当時まだ海だったのである。

 だが、いまはどうだろう。デパートの福屋八丁堀本店がある場所からまっすぐ南に下りた修道高校までは直線距離にしてほぼ3キロ、それよりさらに南のフェリー乗り場あたりまでだと軽く5キロは超える。つまり、江戸時代に入ってから、城の南側はそれほど大々的に埋め立てられていったのだ。

 JR広島駅のすぐ北側まで山が迫ってきていることを考えると、広島城周辺まで平らな土地はほんのわずかしかなかったわけだが、その4〜6倍ほどの長さを埋め立てた計算になり、これはもう尋常とは言えまい。それによってようやく、「広島」は「名は体をあらわす」までになったことになる。だが、それでも、関東平野の最南部に近いあたりに建つ皇居(江戸城)とその周りを囲むようにして作られている江戸の広さとは比ぶべくもない。

 そうした狭さの中で汲々きゅうきゅうとしていた広島城下の人々にとって、もうひとつ悩ましいことがあった。それは、この地域に広く流布していた安芸門徒の教えである。

 別項で詳しく述べるが、安芸門徒の教えの中に、間引き(堕胎)を禁じる一項があった。そのため江戸時代は、城下はもちろん、広島藩全体の人口も増える一方で、どこの家も子どもたちを食べさせるだけで大変な思いをしていた。

 苦しくなれば、人は生まれ故郷を捨て、近在の都市に移ってくるのが古今東西変わらぬ道理。広島城下にも、近郊の農村からどんどん人が流入してきたため、埋め立てても埋め立てても追いつかない状態が幕末までずっと続いた。

 なんとか生計を立てようと、この地からは全国に多くの人が出稼ぎに行った。彼らのことを他国の人たちは「安芸もん」と呼んだ。もちろん、「安芸門徒」のことを指すのではなく、「安芸の者」という意味だ。

 出稼ぎの仕事で多かったのは船方ふなかた(船乗り)稼ぎである。律令時代は、国への貢納物の輸送に漁民などが駆り出されたりしていたが、そうした中に腕っこきが数多くいた。

 船といっても、砂利・土・石などを運搬する船は高度の操船技術が求められる。そのため、全国で一、二を争うほど多くの船が航行する瀬戸内海で鍛え上げられていた安芸もんは水主かこ、つまり船員としてあちこちに雇われていったのである。

 さらに、山稼ぎといって、木挽こびき、大工、船大工、石工などとして諸国へ出稼ぎに行った者も多い。なかでも茅葺かやぶき屋根職人は広く知られており、「芸州流」という言葉あるほどだ。船大工も、伊予いよ三島、小豆しょうど島、豊後ぶんご佐伯などで活躍した跡がある。

 また、花崗岩が多く採れる尾道周辺には技術力の高い石工が多くいた。彼らは北前船きたまえぶねの行き交いにより交流のあった日本海側の港町まで出かけ、神社の献灯、鳥居・狛犬こまいぬ手水鉢ちょうずばち、石橋などを作っている。酒田港(山形県)に建つ日和山ひよりやま常夜灯じょうやとうには尾道の商人の名が刻まれているが、これもそうしたつながりがあったればこそのことだろう。


岩中祥史(いわなか よしふみ)
 1950年11月26日生まれ。愛知県立明和高校から東京大学文学部に進み、卒業後は出版社に勤務。1984年より出版プロデユーサーとして活動するとともに執筆活動も。地域の風土と人々の気質との関係をテーマに、『名古屋学』『博多学』『札幌学』『鹿児島学』『新 不思議の国の信州人』『新 出身県でわかる人の性格』『名古屋の品格』『城下町の人間学』など著書多数。2011年の上梓した『広島学』はご当地広島の人たちをも驚かせる内容で、ベストセラーになった。


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