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2018/3/8

みんなのぷらざ

広島大学マスターズ 学びの窓 <19>

伝達性海綿状脳症・プリオン病についてA

医療事故による人のヤコブ病(医原性CJD)

松田治男
(免疫学)

 ヤコブ病(CJD)を含め人のプリオン病は治療法がまだ確立していない病で、長い潜伏期の後に、発症すると認知症が進み、数カ月以内に無動性無言の後に死亡します。

 米国疾病管理予防センター(CDC)の1987年2月の週報に、Bブラウン社(ドイツ)製造の「ライオデュラ」(ヒト乾燥硬膜)を移植された脳外科患者がCJDを発症した一例が報告されました。

 「ライオデュラ」とCJD発症の因果関係が不明のまま、米国では「ライオデュラ」の使用が全面禁止されました。一方、わが国では同様のケースが1991年に最初の一例が、96年には多数例が出て、旧厚生省は1997年にようやくヒト乾燥硬膜の緊急使用禁止措置を取りました(米国による禁止の10年後)。諸外国と比較してわが国の対応の遅れは顕著で、この医療事故によるヤコブ病(医原性CJD)の被害者数は世界最多という不名誉な結果となりました。

 Bブラウン社は米国のCDCの報告を受け、1987年の5月からヒト乾燥硬膜製品は全て異常プリオン不活化処理をして販売を開始しましたが、同社による旧「ライオデュラ」の回収は不十分のままでした。わが国では、この医原性CJDの被害者たちがBブラウン社と国を訴えた訴訟では、2002年にようやく和解が成立しました(2002年は後述の「誓いの碑」が設置された3年後です)。

 しかし、脳外科手術を受けた多くの患者は、本来はその手術で健康を取り戻せていたわけですから、Bブラウン社の怠慢と情報収集が後手に回った旧厚生省の責任は重大と言えるでしょう。

 厚生労働省の正面玄関前に「誓いの碑」(1999年設置)があります。薬害エイズのような医薬品による悲惨な被害を起こさない決意を銘記した碑です。医原性CJDでは薬害エイズの教訓が生かされていないと思えてなりません。@で述べた食では消費者優先、一方、医療行政にあっては、患者優位の社会の構築が望まれるところです。

 広島大学マスターズは、広島大学を退職した教職員で組織しています。市民を対象にした講座も行っています。
【問い合わせ】kazuwp@hiroshima-u.ac.jp(渡部)


親と子 <6・終>

子どもへの声掛け C できている部分に焦点を当てる

 NLPの前提の中に「失敗はない。そこには学びがある」という言葉があります。人はうまくいかなかったことを「失敗」として捉えて「ダメなんだ」と自分に取り込んでしまいます。例えば積み木を高く積んでいっていたとしましょう。最後の一つを積んだときに崩れてしまうと「失敗した」と認識してしまいます。しかし、最後の一つを積むまでは成功していたんです。

 例えば、子どもが試験で60点を取った時、どんな言葉を掛けますか。「なんで60点しか取れなかったの?

 もっと勉強しなさい」「間違った40点のうち、何とかできたところもあるんじゃないの?

 よく読まないからよ」などとできていないところに焦点を当てる言い方をする人もいます。逆に「60点取れたこと、よく頑張ったね。正答した部分はよく理解できてるんだね」と、できている部分に焦点を当てて伝える人もいますね。

 子ども自己肯定感を高めるには、できていることに焦点を当てる伝え方がいいですね。そして、今後の対策として、これまでの勉強方法を分析してみることで次につながります。うまくいったことは継続し、うまくいかなかったことは改善していけばいいのです。

 特にうまくいった方法は、この先でも必ず使うことができます。うまくくいった時こそ「なぜうまくいったのか?」としっかり分析して一つの方法論を確保しておくことが大切です。つい、人はうまくいった時には「やったあ〜」で終わってしまいがちですね。

 さて、このコラムも最終回。少しでも共感できる声掛けがあれば、ぜひ実践してみてくださいね。きっと変化があるはずです。

文/田邊  東林館高校呉校校長、NLPマスタープラクティショナー
フリースクールあいびぃ(東広島市西条昭和町)代表


わたしのスケッチ

「うれしいんだけどね」(西条町、子はタテに母はヨコに成長期)

 息子、4月から中学生になります。ブッカブカの学ランに袖を通し試着する姿に、人目もはばからず目頭を熱くした母なのでした。春はうれしいけど、なんでだろ、ちょっぴり切ないな。


プレスネット フォトリポート

マンサク街道


2月20日、豊栄町で撮影

 マンサクは冬の名残のある山野で木々の芽吹きも始まらない季節に黄色い花を咲かせる樹木で、樹高は5〜10m。山で一番早く花を咲かせて春の訪れを告げる木で、名前の由来も「先ず咲く」からきているといわれています。県道29号線(豊栄、吉田線)の向原手前500mにわたってマンサクの群生地があります。最近、このマンサクが枯れる被害が各地で発生し枯れてなくなってしまうのではと心配されています。マンサクが希少種とならないよう願うばかりです。

 (フォトリポーター 井川良成)


神機隊 〜志和で生まれた炎〜 》3《

穂高 健一

神機隊発足の芽生え

 長州藩は倒幕の主役ではなかった。毛利家は藩内の内乱ばかりで、明治新政府樹立まで表立って関わっていない。そういえば、「えっ、ウソ」とおどろく人は多いだろう。

 慶応3年10月15日の大政奉還では、長州藩はカヤの外である。同年12月9日の小御所(こごしょ)会議で明治新政府が誕生するが、このとき主な長州藩士で京都にいたのは品川弥二郎(やじろう)だけである。情報収集で潜伏する品川ひとりをもって巨大な徳川政権を倒した主役だとはいえない。


▲京都・小御所

 倒幕の足音はいつからか。天保・天明の大飢饉(ききん)で、徳川政権の経済基盤が傾き、ペリー提督の来航か ら鎖国防衛ができず、開港へとおよんだときである。

 日米通商条約が締結されると、外国人を排除する攘夷(じょうい)運動が盛んになった。長州藩が朝廷をかつぎだし、国内政治の中心を江戸から京都の天皇へと移させた。しかし、長州藩はあまりに過激攘夷すぎて、孝明天皇からかえって排除された(八月十八日の変)。

 毛利家の三家老が失地回復をもとめて、元治元(1864)年、軍隊を引き連れて京都に挙がり、禁門の変を引き起こした。御所にむけて発破し、藩邸に火を放ち、京都の約半分を大火災にさせた。

 激怒した孝明天皇が、長州を征伐せよ、と家茂(いえもち)将軍に命じたのだ。

 これでは勤王を標榜する長州にとっては台無し。幕府と天皇を敵にまわして倒幕どころか、本州の西端に封鎖された。朝敵の毛利家中は京都にも、広島すらいけない禁足が、王政復古による明治新政府誕生までつづいたのだ。

 ところで、第一次長州征討は、長州藩の関係者の切腹・斬首で終わった。その後、長州藩内で高杉晋作など過激派の力が強まり、コ川幕府はそれを危険視し、第二次長州征討へむかっていく。

 広島藩が戦争回避の周旋にのりだした。小笠原老中が広島に赴いてきた。広島藩の執政(実質・家老)の野村帯刀が小笠原に強く非戦の意見を具申する。逆に謹慎処分にされた。同様に、辻将曹・執政が大儀のない戦争だとくりかえし、謹慎。怒った優秀な若者55人が、切腹覚悟の行動にでた。ここから神機隊発足への芽生えとなった。

筆者プロフィル
 ほだか・けんいち 大崎上島生まれ。中央大学卒、日本ペンクラブ(広報・会報委員)、日本文藝家協会、日本山岳会、歴史時代作家クラブ各会員。著作は幕末歴史小説「二十歳の炎」の改訂版「広島藩の志士」が広島・南々社より4月1日に発売予定。同日に「芸州広島藩 神機隊物語」(東京・平原社)が発売される。


一句

東広島俳句協会会員の作品

何を買ふあてもなかりし農具市 岡谷 陸生
食卓に夫の好物つくしんぼ   仲島 伸枝
事もなく卒寿を越して父母の春 岡 信子
春の地震笥に盛る飯を紙皿に  藤本 早苗
春雨や白無垢に傘差し掛けて  中村美奈子


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